代表 上田賢一郎


治療室nozomi
在宅ケア のぞみ治療室

2院の代表を務める上田賢一郎と申します。

11月生まれ/AB型/さそり座
特技:早起き/逆立ち/一人散髪/芝刈り
享栄高校卒
中和医療専門学校本科卒

代表の人生ストーリー/幼少期から社会人

勉強い、運動い、偏食の多いひ弱な子供でした。

上田家の2人姉弟の長男として生まれました。

幼少期に可愛くない子供はいないと思いますが、私も幼少期は可愛かったようです。
ただ可愛さの中にも神経質な一面もあり難しい子供だった様です。
そして、ひ弱で臆病で恐がりだったせいかよく泣いていました。

体はどちらかといえば病弱で、よく風邪をひいていたようです。
幼稚園の時にはアレルギー性鼻炎と診断され、アレルゲンは埃とダニでした。
今はアレルギー症状はほとんど無いのですが40代の頃にアレルギー検査した時は、埃とダニに多少の反応が出てました。ちなみに花粉症は無く、この検査でも花粉の反応はほとんど出ていません。

物心ついた時から鼻が詰まっていたので、それが辛いとか苦しいとか思ったことは無かったのですが、小学生の時にどこかで「鼻が悪いと頭も悪い」と聞いてからは「自分がアホなのは鼻が悪いから」と自己暗示にかかり、大人になるまでそう信じ続けていました。

そして5歳くらいの時には、手術で扁桃腺とアデノイドを摘出されてしまいました。その時の地獄のような光景は今でも鮮明に覚えています。扁桃腺やアデノイドは免疫器官ですので体には絶対必要なはずなのですが大丈夫なのでしょうか?
とりあえず今は免疫力も強く元気に生きていますが・・・

授業はチンプンカンプン、体育も休みがちな小学生時代
小学生の時もあいかわらず勉強は苦手で運動も苦手、授業はしっかり聞いていたはずですが、先生が何を喋っているかさっぱり分からず意味不明でした。
特に算数は+-×÷以外まったく理解不能。
きっと私には6歳での小学校入学は早すぎたのでしょう。

大人になってから知り合った人には話しても信じてもらえませんが、とにかく痩せて体も弱く運動がすごく苦手でした。仮病ではないのですが、よく体育の授業を休んでいた記憶があります。徒競走はビリではなかったものの運動嫌いな上に競争心も無かったため1位になることはありませんでした。

それまで運動嫌いでひ弱だと思っていた私でしたが、小学校5年の時にその自己暗示が解けることになります。体力測定や身体能力テストの結果がなんとクラスの平均よりも良かったのです。
「えっ、俺けっこう力持ちだな」
そう思ったこの時から運動コンプレックスは無くなっていきました。

後方宙返りで悲劇を見た中学性時代
小学校時代に輪をかけて勉強嫌いになりました。
運動コンプレックスは無くなっていたものの、勉強コンプレックスは根強く残っており、中学3年間の成績はクラスで常にトップ5入り!(後ろから)
数学・国語・英語の3教科は特に出来が悪く、英語など中学1年のLesson3辺りで落ちこぼれるという、嫌いな授業は梃子でもやらないとう徹底ぶり。
当時はまだ子供の数も多く、私の学年でも12クラス480人以上いました。その中で私の成績(いわゆる国・数・英の3教科)は常にトップ10を争っていました。(後ろから)

運動は小学生からの運動コンプレックスは解けていたので迷わず運動部に入りました。
チームでやるスポーツは苦手だったので、最初は個人競技の陸上部に入ろうと考えていました。
しかし陸上部に入るつもりでしたが、体育館での部活動見学で急きょ器械体操部に変更。
なぜ器械体操部に変更したかと言うと、前転、側転、宙返り、逆立ち、大車輪・・・。
どう考えても陸上よりカッコいい!
仮面ライダーのようなヒーローになれると思いました。
それに思春期という事もあり「女の子にモテそう」という考えも頭の片隅にちらほら。
男の動機ってそんなもんです。

そして忘れもしない中学3年の5月13日。
いつものように朝練で床運動の練習。
この頃、体操の技の中でも特に後方宙返りが絶好調で高さも滞空時間も技のキレも絶好調。
朝練最後の一発を決めようということで、助走をつけ宙を舞ったその瞬間タイミングがズレて後方宙返り失敗!とうとうやってしまったのです。人生初の骨折。

その時、隣で練習していた卓球部やバスケ部にも竹を折ったような鈍い音が聞こえたそうです。
激痛が走り倒れこんだ時に自分の腕を見ると、手首と肘の間にもう一つ関節ができたように、そこから90度ほど折れ曲がっていました。
今でもその傷痕ははっきりと残っています。

ビーバップハイスクールさながら。
入った高校はドラマそのままのヤンキー学校。
わたし的には今の中京大中京高校(当時は偏差値低かった)に入りたかったのですが担任の勧めもあり、当時中京高校より少し偏差値の低い享栄高校を勧められ、そのまま入学することになりました。

今でこそ享栄高校も男女共学で校舎もきれいになりましたが、当時の享栄高校と言ったら泣く子も黙る極道養成校みたいな感じで実際入学式に行ってみると、ビーバップハイスクールさながら、金髪、リーゼント、剃り込み、学ラン、ドカン・・・ドラマから出てきたような生徒がいるわいるわ!
いや~まぁビックリ仰天でした。
この学校、当時はよく他校との暴力事件を起こしていましたが、私は立ち回り方が上手かったのでそれらの行為には参加強要されることが無かったのが良かったです。(見た目はワルだが根は真面目だったので)
こんな高校でしたが、高校時代は3年間柔道部に所属し、授業もほぼ皆勤賞!
3年生の秋ごろに頭髪検査でカールアイパーが校則に触れ、強制退去されるまで皆勤賞でまじめ?にすごし卒業しました。

まさしくこんな感じでした。

頭はカールアイパー、もしくは丸刈りに剃り込み。

学ランにズボンはドカン。
靴は先の尖った黒い革靴。
かばんは手ぶらかペラペラ。

ビーバップハイスクールの写真をお借りしてきましたが、そのまんまです。

代表の人生ストーリー/高校卒業から在宅ケア開業まで

高校卒業から社会人へ
高校を卒業してからはガス器具で有名なパロマ工業に就職しました。
配属先は大口工場のダイカスト。
溶かしたアルミを金型に圧入して製品を作る部署です。
常に700度以上のアルミ溶解炉と向き合う仕事だったので夏場はかなり過酷な職場でした。
入社時は幹部まで昇進して定年まで働く!と思っていましたが、思うことあって3年数か月働いたのちに依願退職。

今、機械関係に詳しく自分でなんでも分解修理ができるのは、この職場で機械が故障する度に分解組み立てをしていた経験が生きているし、近年の夏の酷暑にビクともしないのは、ここでの環境で鍛えられたからだと思っています。

 

スキー場での住み込みバイトからインストラクターへ
会社を退職後は、一生に一度の経験をするため、スキー場にある小さなホテルの住み込みバイトとして長野県に向かいました。その前年に始めたスノーボードを一冬で激上手くするため、当時スノーボードのメッカといわれた長野県のエコーバレースキー場に修行に入りました。

当初は一冬だけ住み込みでバイトしたら翌春にはちゃんと就職するつもりでいましたが、のめり込むと止められない性格のため、翌年の冬も住み込みのバイトで長野に行くことを決意。しかもバイトのつもりだったのが、ひょんなことからインストラクターとして働くことになりました。
その時まだ23歳。
まさかそれが35歳まで続くことになるとは想像もしていませんでした。

私はそれほど滑りが上手かったとは思いませんが、タイミングが良かったというか周りに人に恵まれたというか、雑誌やビデオ、テレビには何度か出させていただきました。

その中で一番メジャーだったのは当時フジテレビ系列で午前中に放送されていた「ズームイン朝」。その中の「スポーツいい話」というコーナーで、司会の川端健嗣アナウンサー(当時)と日本航空のキャビンアテンダントにスノーボードをレッスンしている光景を取材されました。

全国放送で私は紹介されたのは事実ですが、実はこれ、本当は他の人(同じスクール)を取材する予定で、収録日にその人が不在だったためナンバー2として私に話が回ってきた代役だったわけです。(笑)

29歳の時にはインタースキーというスキーインストラクターのオリンピックといわれる大会に、スノーボードの日本代表として出場させていただきました。この時は野沢温泉で開催され、当時スノーボードの愛好者が世界的に増えていたこともあり、スキーのイベントではあるのですがスノーボードも共演する形で出場することになりました。
実はこれも「ズームイン朝」と同じく代役だったのですが・・・。

そして33歳の時もインタースキーの日本代表に選ばれてしまいました。
なぜ「選ばれてしまいました」なのか?
それは絶対に出場したくなかったからです。
スキー選手からすればこれほど名誉なことはないのですが、私にはまったくその価値を感じなかったので仕方ありません。
しかも今度は日本ではなくノルウェー。
本当に行きたくなかったので通達が来た時は辛かったです。

初めてエコーバレーの門をくぐってから13年、あっという間に月日が過ぎ、35歳になるまで長野でのイントラ生活は続きました。
そして私の人生の転機である、あの日を迎えるのです。

 

滑走中の事故
忘れもしない35歳の3月3日、お雛様の日。
早朝トレーニング中にアイスなバーンにエッジを取られ、体制を立て直したと思った瞬間立ち木に激突。

鈍い音とともに左足がヒザの所から完全に折れてしまいました。

怪我をした時はかなりの衝撃と激痛で、息もできないほどでした。
本当に痛かった。

しばらくしてパトロール隊に救助されましたが、救急車が搬送する予定の病院が好きでなかったため救急要請を断り、そのまま地元の他の病院にスキー学校の車で運んでいただきました。

翌日の精密検査の結果、想像以上に足の状態が悪かった。
あまりの痛さに早く手術して楽にしてほしいという願いもむなしく、オペ室が空いていないため手術できたのは事故から8日後でした。

その手術ですが、折れた場所が悪く複雑だったため予定よりも時間がかかり、終わったのはオペ開始から9時間後。

この病院には約3ヶ月入院しリハビリと治療にあたりましたが、関節内の骨折だったため予後が悪くなかなか膝の動きや筋力が回復しませんでした。

骨折は時間と共にひっついていきますが、骨折以外にも以外に半月板や膝関節を構成する十字靭帯も断裂していたため余計に時間がかかってしまいました。

怪我から6ヶ月後、骨折部分がほぼ完治し日常生活ができるまで回復した所で、やっと仕事に復帰しました。

骨折は治ってもいても靭帯は切れたままだったので、仕事中は膝に装具が必要でした。
装具をしないと脱臼してしまうのです。

日常生活レベルでいいならこの時の状態でも問題ないかもしれません。
しかしアスリートレベルに戻すには切れた十字靱帯の再建手術は必須でした。
そして所属スクールのオーナーの強い勧めもあり事故から約1年後、膝の靭帯再建手術を得意とする神奈川県川崎市の病院で再手術する事が決まりました。
結局、長野と神奈川の2つの病院で、延べ6回の手術を受け、スノーボーダーとしてゲレンデに復帰できたのは最初の手術から2年経った後でした。


人生の転機
6回の手術で2年後にはスノーボードが滑れるまでに回復しました。
しかし筋力がアスリートレベルまで回復するにはいたりません。

筋力が戻ってこなければ怪我をする前のような滑りは出来ません。

プロのコーチとして滑って行くためには、常に自分の技術を進化させなくてはなりません。
しかしこの筋力のままでは、誰よりも早く自分の滑りを進化させていく事はできません。

色々悩みました。

第一線で活躍するには怪我する前のパフォーマンスと同レベルに戻さなければいけない。
しかし年齢的に時間が無い。
完全に復活できる目途もない。

このまま続けても60歳まで現役は困難。
悩みましたがプロとして現役続行していく事を断念するしかありませんでした。

 

もっと体の事を知りたい
この時の怪我が切っ掛けになり、身体の仕組みや回復のためのトレーニング方法など、医学やリハビリに興味を持ち始めました。
しかし独学での勉強には限界があります。
専門的な勉強をする為には、医療系の学校に入って体の勉強をしなければいけない。
もっと専門的な事を教わりたい、そういう思いがどんどん強くなっていきました。

スキー場に集まる仲間は皆言いました。
痛みで整形外科に行っても、レントゲンや検査で異常がなければ何もしてくれない、結局湿布をもらって帰ってくるだけ。
そう嘆く仲間を多く見てきました。
この様な事も切っ掛けとなり、体をケアする仕事をしたい。
体が悲鳴を上げている人達を楽にさせたい。

そんな思いを抱くようになり、長野での10年間の生活に見切りをつけ、愛知県の実家に戻る決意を固めました。

 

治療家を目指す
実家の愛知に戻って最初に始めたのは骨格矯正法。
いわゆる整体です。

民間資格ではありましが、
アメリカの国家資格(カイロプラクティック)を持つ講師に、みっちりと厳しく教えられ、2年後には骨格矯正法の民間資格を取得することができました。

写真はアメリカのロスアンゼルスにあるカイロプラクティック大学で解剖学実習を受けた時のもの。
男性は学長、女性は解剖学教室の教授。


人相が・・・

その後、接骨院などで働きながら臨床経験を積んで施術の実力を磨いていきました。
しかし何か満足できません。何か後ろめたい物を感じるのです。
当時はまだ整体の民間資格のままだったので、医療系の国家資格は持っていませんでした。
治療に携わる者として民間資格だけでは筋が通らない!
民間資格だけでは、国が決める最低限の知識が足りません。
人様の身体を触る以上はちゃんと国が定めるカリキュラムをしっかり学ばなければいけないと感じていました。
それに民間資格では活動できない部分も多く、治療家としての筋も通したかった。

そして、40歳にして国家資格取得に向け専門学校の受験を決意したのです。

 

医療専門学校に入学
以前から鍼灸・あん摩マッサージ指圧師に興味があったため、その両方の免許が取得できる学校を受験する事にしました。

しかし問題は入学試験。

高校時代はロクに勉強もせず遊んでばかり、とても受験に合格する頭脳はありません。
それでも筋を通す為には受験を避けては通れません。
そして40歳にしてまさかの生物と国語の参考書を購入。

参考書を開いてみると、高校時代に習った記憶がまるでありません。
それもそのはず、授業時間は早弁と睡眠の時間でしたから(^_^;)

今思えば、この時が小中高校時代を通して人生で一番まじめに勉強をしました。
本当に頭がオーバーヒートするのが分かりましたから。
そのくらい勉強しました。

人間、やればできるんですね。

当時、入試の倍率が3倍で、現役高校生や大卒の人が多かったのですが、新卒や大卒に混じってオッサンの私も合格することができました。

 

国家資格取得と開業
入学後も老いた頭に日々の勉強は大変でしたが、3年間後には、あん摩マッサージ指圧・はり・きゅう師の3つの国家資格を取得することができました。

晴れて民間資格から国家資格も有することになりましたが、最初からエイジングケアや美容を目指したわけではなく、最初は接骨院や治療院で一番多い、肩こり、腰痛、ひざ痛、五十肩やマッサージなど、筋骨格系の施術を行っていました。
在宅ケアも最初から目指したわけではありません。

治療院で働いていると多くのお年寄りと接します。
中には90歳以上の年齢で通って来られる元?なお年寄りもいました。
みなさん色々な体の不調を訴えとても辛そうでしたが、その方たちはどれだけ体の調子が悪くても、まだ自分の足で治療院まで通うことが出来ました。

最初の頃は治療院内での仕事なので気づきませんでしたが、日々の患者様との会話の中から、自分の力で病院や治療院に通う事も出来ず自宅で苦しんでいる人達が居るという事を知りました。
病院や治療院に自分で通える人は、自分の意志で、自分の力で、自分の好きな時に通うことが出来ます。しかし体が不自由で自分の力で通院できない人は、治療を受けに行くことが出来ないのです。

では、その痛みや辛さはどうすればいいのでしょうか?
そう考えた時「もっと自分の役割、技術を今以上に、本当に必要とする方々に届ける事が出来るのではないか?」と思うようになりました。
そういう思いから平成23年に江南市を拠点にした在宅専門鍼灸マッサージ治療院「在宅ケアのぞみマッサージサービス」を開業したのです。

しばらくは治療院勤めと並行して訪問マッサージをしておりましたが、より多くの患者様の声に応えるため平成25年春からは、在宅ケアのぞみマッサージサービスのみで活動をはじめました。

つづく・・・

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